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【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第2節 似て非なる [3]




 だが、さすがにその言葉を、よりによって美鶴の目の前で口にする事はできず、瑠駆真は一度強く瞳を閉じてからゆっくりと開いた。
「僕のせいで君が迷惑を(こうむ)ったとしても、それは僕の意図には反している。僕は君を困らせようなんて、欠片も思ってはいない」
「でも実際には被ってる。責任は取って欲しいもんだわ」
「責任? どうやって?」
「まずは、どうしてアンタ達がモメてるのか、理由ぐらいは知りたいものだわね」
「そんなものは知らない。さっきも言ったが、向こうが勝手に絡んできただけだ。聞くなら小童谷に聞いてくれ」
 できるものならね。
「アンタの事、くまちゃんって呼んでた」
「昔の事だ」
「人殺しとも言ってた」
 口にしてから、相手の感情を逆撫でるような発言だったかと後悔した。だが相手は、美鶴の予想に反して涼しい顔だ。むしろ優雅とも言える仕草で小首を傾げる。
「知らないと言うワリには、いろいろ知っているね。さて、実際にはどこまでを盗み聞いたのかな?」
「べつに盗み聞きしたワケじゃ」
 立ち上がり、机をまわって近寄ってくる相手。美鶴も慌てて立ち上がる。
 瑠駆真の足取りはゆるやかだ。だが確実に二人の間を詰めていく。
「みんな昔の事だ。それに、僕は誰も殺してはいない。酷い濡れ衣だ。小童谷の妄想だよ」
「でも、自殺までして」
「僕がそうさせたと言うのか?」
「そ、そこまでは言ってないけど」
「言ってるだろうっ!」
 さすがに怯む。身を包む雰囲気がコロコロと変わる。
 瑠駆真、変だ。もっとも、人を自殺に追い込んだだなんて噂を立てられたら、誰だって動揺はするだろうけど。
 瑠駆真だったらひょっとしたら大して気にもしないのかもしれない。なんて思っていた自分を甘く思う。
 冷静で沈着。そんなイメージが瑠駆真には似合う。だがそれは頭の回転が速いというだけで、無感情というワケではない。
 瑠駆真は、頭がいい。私なんかよりもずっと。
 戸惑う相手に、瑠駆真は必死に感情を抑えて瞳を閉じる。
「君は、僕の言葉よりも小童谷を信じるのか?」
「え?」
「僕の事を人殺しと罵る彼の言葉の方を信じるのか?」
「そういうワケでは」
「じゃあ何だ? なぜそこまで食い下がる?」
「私はただ、巻き込まれた身として事実を知る権利はあるはずだと」
「知る必要はないよ」
「必要があるか無いかは私が決め――」
「奴は母さんの事が好きだったんだよっ!」
 両手を振り上げ、振り下ろしながらそう叫んだ。そうして、絶句したまま動けない美鶴から視線を逸らし、荒れる呼吸を整えながら繰り返す。
「小童谷は、僕の母さんの事が好きだったんだ」
「お、母さん」
「自宅で英語塾を開いていたんだ。小童谷は生徒だった」
「お母さんって、確か、死ん、だ」
「そうだ」
 短く肯定する。
「母さんは死んだ。小童谷は、僕が殺したと思っている」
「え?」
「そんなのは妄想だ。僕は母さんを殺してなんかいない」
 早口で否定し、顔をあげる。寒いはずなのに、手が凍えるほど冷えているはずなのに、瑠駆真の頬は少し紅潮している。
 吐く息が白い。
「母さんは事故で死んだ。それは小童谷もわかっている」
「じゃあ、なんで人殺しだなんて」
「ただの八つ当たりだ。母さんが死んだ寂しさを紛らわしたいだけなんだよ」
 そうだ、そうに決まっている。好きな人が死んでしまって自分は寂しいのに、他の人間が楽しそうに恋をしているのが羨ましいのだ。嫉ましいだけなのだ。
(たち)の悪い僻みだよ」
「そんな」
 好きな人が死んだ。その寂しさの為だけで、誰かを人殺しと罵るだろうか? 確かに好きな人が死ぬというのは辛く悲しい事だろうが、だからと言ってあそこまで目の敵にし、ワケのわからない嫌がらせを繰り返し、関係の無い自分のような人間まで巻き込んだりするなんて、そんな事をするだろうか?
「理解できないよ」
「する必要はないよ」
 ようやく落ち着いてきた呼吸の間から、瑠駆真が素っ気無く答える。そうして、前屈(まえかが)みになっていた身を伸ばす。
「自殺だというのなら、楽しげなクリスマスの雰囲気に耐え切れず飛び出したといったところかもしれない」
「納得できないよ。それ、本当?」
「勝手だな。君が話せと言うから僕は話しただけだ。事実だよ。悪いが僕は、君とは違って、下手な嘘で問題を回避しようなどという手は使わない」
「なっ 失礼な」
「事実だろう?」
 軽く顎をあげて見下ろしてくるその顔には、直前までの動揺など微塵もない。いつもの、優雅で甘美で、爽やかだけどどこか魅惑的な彼がそこに居る。
「関係ないと言うワリには、ヤケにムキになって否定するじゃない」
 言い返したつもりだが、瑠駆真はゆっくりと笑った。
「当たり前だろう」
 本当に当たり前というように首を傾げる。
「好きな人に疑われるなんて、とても耐えられない。君だってそうじゃないのか?」
「え?」
「霞流に何かを疑われて、君なら平気でいられるのか? それとも」
 そこで右手の人差し指を唇に当てる。
「君はそれほど霞流を想ってはいないのか?」
「ばっ 馬鹿にしないで。本当に好きなんだから」
「本当に? ただちょっと見た目がいいからって憧れてるだけなんじゃない? 好きと憧れは別物だよ」
「馬鹿にしないでよっ!」
 近づく相手に一歩下がりながら、それでも気丈に言い返す。
「私は本気よ」
「僕も本気だ」
 さらに後退(あとずさ)ろうとする美鶴の右の手首を素早く掴む。そうして、あっと言う間に引き寄せた。
「僕も、本気なんだよ」
 右腕を腰に回し、顔を近づける。
「本気で君が好きだ。だから、君に在らぬ誤解をされるのは我慢ならない。当たり前だろう?」
 逃げようとする顎を捕らえる。
 それほど鍛えられたワケではないが貧弱でもない体躯が、ピッタリと寄せられる。甘く、優雅でしなやかな笑みを湛えて見下ろしてくる。その瞳が品良く揺れる。
「どうやら、君はまだわかっていないようだね?」
「何を?」
「僕がどれほど君を想っているかって事をだよ」
「そ、それはわかってる」
「わかってないよ。わかっていたら、僕が君を困らせるような事なんてしないって、わかるだろう?」
「でも、現に迷惑してて」
「それは僕のせいじゃない」
「せいじゃなくっても、せいみたいなもんだ」
「悲しいな。そんなふうに責められるのは我慢できない」
「仕方ないだろう。だいたい、私はアンタの気持ちには応えられないんだから、だからアンタの気持ちが理解できようが理解できまいが同じ事だ」
「同じじゃないよ」
 腰に回した腕に力が入る。二人の距離が縮まる。
「僕の気持ちを理解してもらわなければ、君を振り向かせる事もできない」
「だから、それは無理だって」
「無理じゃないよ」
 さらに近づく。瑠駆真の瞳に美鶴が映る。
「無理じゃない。絶対に君を手に入れる」
「なんて諦めの悪い」
「それだけ本気だって事」
 クスッと笑みが漏れる。







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